すっかり時間が経ってしまった。今日は叔母について。

 

自分のことについて、文章を書こうとしたあの日から、一ヶ月ほど経ってしまった。
今日は少し嫌なことがあって、一日寝て過ごしていたのだけど、ようやく起き上がった夜中、ふとくり茶の時間をつくりたいなと思ったので書いている。

 

タイトルの叔母は、母方の叔母のことだ。母の、弟の妻。生まれたときから、同じ家に住んでいた。私の家庭は三世帯家族だったので、一つの家に住んでいた。叔母は、いつも氷のように冷たい印象を受ける人だったので、このブログでは冬子さんと呼んでみる。


冬子さんからは、私は(控えめにいうと)あまり好かれていなかったと思う。長女である私の母は、私にとって祖父母にあたる二人にとても大切にされていて、そして母も、その愛を様々な形で受け取りたい人だった。家についても、三階建の一番上は私の家族で、部屋も多い階だった。二階が冬子さん夫婦の住居。5LDKの三階に比べて、二階は1DK。この時点で、だいぶ不服だったのではないかと思う。

お見合いで結婚した叔父と冬子さんは、叔父よりも10歳年下の冬子さんがこの一軒家に引っ越してくる形で同居した。初めは祖父もいたが、癌で亡くなって、それからは一階に姑にあたる祖母がひとりで暮らしていた。

私が冬子さんに嫌われていると感じたのは、何才くらいのことだっただろう。私、この人に嫌われているかもしれないと、物心ついたときから感じていた。無視をされたり、睨まれていたような記憶がある。そしてその頃、私の母は自身の父を亡くし、うつ病になった。母は何度も自殺未遂を繰り返したり(主に向精神薬のOD)リストカットをしたり、ある日部屋のなかで倒れていることにびっくりするような時間が増えた。

そんな時期、冬子さんは、私に優しく努めようと、上野動物園に連れていってくれたことがある。優しくて驚いたので、なぜかよく覚えている。とてもうれしかった。

母は、そんな不安定な状況ながらも、自分の娘の教育に没頭することで、精神的な不調を忘れようとしていた。これは大人になってから聞いた話だが、大学までエスカレートであがる幼稚園に入っておけば、苦労しないだろうという母なりの方針だったらしい。幼稚園一年生の受験には落ちたが、その後お受験塾に通ったり、母の猛烈な指導のもと、私は都内での有名私立幼稚園に入学することができた。

しかし、母の体調がよくなっていくことはなかった。ある日、突然氷しか食べなくなったり(氷食症)にんじんしか食べなくなったり、腕にはリストカットの痕がたくさんあった。すべてを知っているわけではないし、想像だが、祖父の死に心を痛め続けていた。母は、愛する人との別れに耐えられない人だった。

この頃のホームビデオを観て、びっくりしたことがある。夕食は集まって食べていたのだが、母は元気なときも何もせず、ほとんど冬子さんと、祖母が夕食の支度をしていた。そして、二人が作ってくれた食事を、母は仕事が終わった父に運んでいた。冬子さんは、姑家族に"つかわれている"嫁だった。これは私にとって衝撃だった。

その後、冬子さんにも子どもがうまれ、私と同じお受験塾に通わせ、同じ幼稚園の受験をしたが落ちて、違う幼稚園に通った。このことも、冬子さんにとってはこの一家にいる中で辛いと感じることだったのかもしれない。

段々と、私に対する当たりが強くなっていった。
あるときは冬子さんが亡くした財布を、私が泥棒したのではないかと疑われて家のなかで調査され、あるときは私は私立の学校で近所に友人がいなかったため、従姉妹が遊んでいる近所の公園で遊びにまぜてもらおうとしたら、「くり茶は違う学校だからだめです」と子どもたちの親にも通達したらしく、遊んでもらえなくなった。

 

学校では、自分のレベル以上の授業、家庭環境に恵まれた子どもたちについていくことに必死だったし、友人にいじめを受けていた。家に帰れば、母は病が不安定な状況で、(入院していた時期もある)冬子さんは冷たく、どこにも、安心できる居場所がないと感じていた。父は、休みの日になると遊んでくれて、その遊びがいつもとても楽しかったけれど、浮気性で女性との遊びに私を連れていってしまったりするので、母がよく怒っていた。夜になると、子ども部屋の外で父と母はいつも怒鳴り合いの喧嘩をしていた。大きな音が苦手なのは、この頃の声が恐かったのが原因かもしれない。

 

これもまた、大人になって聞いた話だが、父と冬子さんは、もしかしたら一時期不倫関係にあったかもしれないそうだ。テーブルの下で手を繋いでいるのを、母が見たとか。本当だとしたら、さすがに同じ屋根の下で、とんでもないことだとおもう。でも父にはそういう面があった。

 

今なら、冬子さんの気持ちが少しわかる。20代で、姑や義理の姉がいる家に住んで、家族の面倒をみなければならない。義理の姉はわがままだし、叔父も冬子さんを守ることができていなかったのだろう。関係性を考えれば、家のなかで鬱憤をぶつけられる相手は、自分よりも弱い立場である私しかいない。

冬子さんも、たまに優しいことはあった。病で倒れまくっている母への寂しさに泣いてばかりいる私を、ディズニーオンアイスに連れていってくれたこともある。

 

冬子さんは、冬子さんなりにとても辛い環境だったのだ。私も辛かったから、この傷が消えることは一生ないけれど、もしまた話す機会があるのだとしたら、私は冬子さんを理解したいから、話ができたらいいなとおもう。(冬子さんは叔父と別れ離婚し、ほぼ私たちとは絶縁している)

 

人生を思い返せば、この頃から私の生きにくい時間が始まったので、今日は冬子さんのことを中心に書いた。これから様々なことを書いていくけれど、誰かにとってのなぐさめや、こんな生き方もあるんだ、という選択肢、そんなものになったらうれしいと願いながら、書き続けます。